第三回「オセロー」

使用テキスト

新潮文庫『オセロー』福田恆存 訳

 

 

今回取り上げるのは「オセロー」です。オセロゲームをみなさんご存じでしょうが、黒くなったり白くなったりするということで、ネーミングはこの作品からきているそうです。

 

初演は1604年。この前は1599年に「十二夜」1600年に「オセロー」。この後は05年に「リア王」と「マクベス」07年に「コリオレイナス」と作家として充実していた時期だったのでしょうね。

 

シェイクスピア作品のほとんどには元になった作品がありますが、このオセローもツィンツィオの『百物語』をベースにして作られました。

 

それにしても恐ろしい話ですね。実際はしていないのに、奥さんが浮気をしていると思わされて、嫉妬に狂って、最後は奥さんを殺して自分も自殺してしまう。バカかこいつは。そういう感想を抱いた方は私だけではないと思います。それにしてもイアーゴーのオセローの心を操るその話術は見事なものです。

 

 

 

オセローにはほかの登場人物と明らかに違うところがありますが、わかりますか? 舞台や映画を観たら一発でわかりますが本を読んだだけでは見逃しやすいことです。肌の色ですね。「ムーア人」であり肌の色を言及するセリフもあります。ムーア人とはもともとアフリカのベルベル人を指していましたが、15世紀以降は北アフリカやアラブ人も含めたイスラム教徒全般を指すようになります。

 

ですからオセローは黒人だという解釈と、褐色の肌という解釈がありますが、いずれにせよキリスト教世界の白人ではありません。このことはこの物語のとても重要なポイントです。

 

舞台はヴェニスです。これも重要なポイントです。当時のヴェニス、すなわちヴェネチア共和国は国際的な都市国家で経済活動がとても盛んでした。外国との交流が盛んだったということは、外国から狙われやすいということでもあります。当時はスペインやポルトガルが脅威ということもあり、国防には力を入れていました。イスラム世界との軍事的交渉なくしてはルネッサンス期の発展はありえなかった。だからオセローのような黒人の傭兵が必要とされていました。

 

ちなみにイギリスにおけるムーア人の扱いはどうだったか。シェイクスピアが活躍した時代でもある15961601年にエリザベス一世によりムーア人をイングランド領内から追放する令が出されています。ですからイギリスから遠く離れた場所でのお話であるから、観客たちはリアリティを感じられたのです。

 

ムーア人というのは開放奴隷とはニュアンスが違い、黒人でもその地位は高かったそうのです。オセローもとても高潔な人間として描かれています。白人ではないからこそも白人以上に白人らしく生きようとしていたのだ、と唱える研究者もいます。オセローはいつでも自分の肌の色を意識しながら生きざるを得ない。当時は人種の違うもの同士の結婚は不自然なものとされていて、デズデモーナ自信がいつか自分と結婚したこと自体が間違いだっと気づくのではないか、そんな不安が漠然と心の中にあった。

 

そのコンプレックスをイアーゴーによって徹底的に攻撃され、その人格が破壊されてしまうのです。

 

イアーゴーは激しくオセローを憎みます。副官には経験豊かな自分ではなく、経験の少ないキャシオーが選ばれた。妻のエミリアと不倫していたふしもある。しかしどうしてそこまで憎まなければいけないのか。そんなことをしても彼のなんの得にもならない。むしろその憎しみのためにイアーゴー自身も破滅に追い込まれるわけです。たくさんの研究者がこの点に関して議論が繰り広げられていますが、コールリッジという研究者はイアーゴーの行動を「無動機の悪」と名付けています。面白い説をひとつ紹介しますが、戦場でオセローとイアーゴーは絶えず一緒にいた。そのうちイアーゴーはオセローの分身であり、オセローに対して同性愛的な愛情を抱くようになった。しかし副官に選ばれなかったことでその愛情が憎しみへと変わった、と唱える研究者もいます。

 

時代の影響も強く受けている、という見方もあります。古い時代を象徴するオセローと現代すなわちルネッサンス時代を象徴するイアーゴーの戦いである。

 

激情家のオセローと理性的なイアーゴー、伝統的部族的なオセローと現代的実際的個人主義的なイアーゴー。イアーゴーは「武人らしい中世騎士の名誉」「主人への忠誠」「美徳」「男女の愛と信義を信じる」といった価値を冷笑し容赦なく攻撃する。新しい時代が古い時代を徹底的に破壊する。そう解釈する研究者も多くいます。

 

また逆に神の意志がすべてだった時代から科学的根拠があるものが正しいのだと、そんなルネッサンスに対してシェイクスピアは疑問を抱いているのだと唱える研究者もいます。イアーゴーは「私は科学的ですよ」という顔をしてオセローをミスリードするわけです。マジックでよくありますね。好きなカードを一枚選んでください、と言われて観客は自分で選んだものと思っていても、実はマジシャンがある特定のカードを選ばせていた。そんな風にオセローはイアーゴーの都合のいい場所に立たされる。その地点から見てみると確かにデズデモーナが不倫をしているように見える。科学的根拠に導かれても真実とは全然違うじゃないか。科学をそんなに鵜呑みにしてもいいのかい。現代にも通じることですが、そんな当時の風潮をたしなめる思いがあったのではないか、という説ですね。

 

それにしてもイアーゴーの話術が見事ですね。直接的にはデズデモーナが不倫をしています、とは言わない。オセローの想像力を巧みにかきたてて、最後は破滅へと追い込んでしまいます。

 

世界中のほとんどの人々はイアーゴーが悪者でオセローに同情するというのが普通だと思いますが、文化の違いといいますかね。イタリアの一部の地方ではイアーゴーがヒーローで、オセローを陥れたことに拍手喝采する観客もいるそうです。

 

そんなオセローとイアーゴーのやりとりが一番の見どころといってもいいかもしれません。

 

ではいよいよ朗読に入っていきますが、午前行けることまで生き、昼食休憩を取った後、四幕三場「柳の場」と呼ばれるシーンを取り上げて、2作品のDVDを比べて鑑賞しどのように演出されるのかを見ていきたいと思います。

 

 

 

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この間仲間の俳優と飲んでいるときに「シェイクスピアの勉強会やってるからおいでよ」という話をしたら「なんでシェイクスピアなんですか?」って聞かれたんですね。面白いとか楽しいとか、奥が深いとか、ありきたりな言葉を並べたんですけれど、なにか違うな、っていうかそれだけじゃないわけですよね。その質問がずっと引っかかっていました。

 

でも一つこういうことだな、と腑に落ちたことがありまして、これからお見せするDVDを編集しているときに思いついたのですが、これから二つの「オセロー」の同じシーンを見てどのように演出されたのかを比較してみたいと思います。

 

ひとつはオーソン・ウェルズの映画1952年作品です。一つは蜷川幸雄の舞台です。台本を大きな改編もなく、できるだけ忠実に演出されているのですが、全然違うものになっています。どちらも素晴らしい。もちろん「オセロー」はこれだけではなくてほかにも世界中に優れたオセローはたくさんあります。そんな風に世界中の才能のある芸術家たちがシェイクスピアに真剣勝負を挑んでいるわけです。なぜか。それだけの価値があるということなんですね。「これがシェイクスピアなんだ」とは一言では言えないし、もしかしたら一生かかって見つけていくことなのかもしれません。そんな旅もまた楽しいんじゃないかなと思っています。

 

 

 

最初にオーソン・ウェルズの「オセロー」、続けて蜷川幸雄さん演出の彩の国シェイクスピアシリーズの舞台を観ていただきます。

 

オーソン・ウェルズを知らない方いらっしゃいますか? かつてアメリカを中心に活躍した俳優であり映画監督である人です。俳優としての代表作は「第三の男」といわれています。音楽も有名で聞けばあの曲か、と誰もが聞いたことのある曲だと思います。ラストシーンも有名ですね。しかしこの作品オーソン・ウェルズはなかなか出てこないんですよ。いつになったら出てくるんだ、と思いながら見ていると1時間ほどたってやっと登場して、おいしいところを全部持って行ってしまう。そんな役柄でした。

 

オーソン・ウェルズの名を有名にしたのは「宇宙戦争」というラジオ・ドラマでした。ドラマなのに「臨時ニュースです」と実際のニュースのような演出にして、宇宙人が襲ってきました。死者も出た模様です、と放送して、それを聞いた人は本当のニュースと勘違いしたそうです。街中がパニックになった、という有名な伝説がありますがパニックうんぬんは嘘みたいです。先日まで実話だと思っていました。

 

映画監督として有名なのがなんといっても25歳の時に監督した「市民ケーン」ですね。映画史に残る名作と言われていて、オールタイムベストテンを行うと「2001年宇宙の旅」とか「風と共に去りぬ」とかとならんで毎回ベスト5に入るほどの作品です。実は私も人生で一番好きな映画の一本に入ります。気分によって「バック・トゥ・ザ・フューチャー」だったり「天空の城ラピュタ」だったりするのですが、ちょっと気取りたいなというときには「私の人生の一本は『市民ケーン』」です、というと、「おぬしなかなやるな」となるのですが、この作品はなんの予備知識もなく見ると「この映画のどこが面白いんだ」とキョトンとなる、といいますか、初めてこの作品を見た時の私がそうだったのですが、解説書を片手に鑑賞してみると、ディープフォーカス(画面の中のすべてにピントが合う手法)、広角レンズの多用や床にカメラを収める穴を掘ってまで拘ったローアングルの多用など、撮影にしても照明にしても脚本にしてもこんな工夫をしているのですよ、ということを知ると実に監督が遊んでいるといいますか、大掛かりな機械仕掛けのおもちゃを与えられた子どものように楽しんで映画を作ったんだろうな、とこっちまでわくわくしてくるんですね。

 

皆さんも時間があったら是非見てください。

 

そんな才能豊かなオーソン・ウェルズですが、ハリウッドでは正当に評価されたとは言えませんでした。

 

市民ケーンのモデルになったと言われるハーストという人は、新聞王と呼ばれ数多くの出版社を経営していたそうですが、ハリウッドに対しても大きな権力を持っていたハーストを怒らせてしまいまして、ハリウッドでは冷遇されて、映画はなかなか作ることができず、イングリッシュアドベンチャーでしたっけ、「家出のドリッピー」のタイトルの英語教材が日本でも発売されていますが、そんな仕事で食いつないだとのことです。

 

 

 

このオーソン・ウェルズの「オセロー」ですが、公開当時は大コケして長い間忘れ去られていたのですが、何年かたって再評価されまして、市民ケーンと並ぶ傑作なのではないか、という評論家もいるぐらいです。

 

 

 

それに対して2本目は蜷川幸雄さん。この方を知らない人はいないだろう、というよりもしかしたら蜷川の舞台に立ったことがある、という方がいるかもしれませんね。いますか?あるいは親しい友人がたったことがある、という方。私も映画を一緒に撮った仲間の一人が蜷川の舞台に立っていますし、またたまたまですが隣に住んでいる人の息子さん、いまは独立しましたが、が俳優で蜷川さんの舞台の常連なんですね。

 

この彩の国シェイクスピアシリーズでは「柳の場」においてエミリアの解釈が斬新です。

斬新なのですが、決して台本から外れたことはしていない。

エミリアはいつもデズデモーナの近くにいるうちに、彼女を深く愛するようになり、彼女の悲しみを誰よりも理解している。

そう演出されれば、確かにそうだよなと思える。原作から完全に離れてまったく別のものを創ってしまう、というのはよくあることですが、シェイクスピアから決して逸脱していない。深く理解していないと出ない演出だと思います。

 

私が印象に残っているエピソードで、蒼井優さんが蜷川さんに「どうしてハンカチを落としたぐらいでこんな大騒ぎになるんですか」と質問したら、蜷川さんは「当時の人にとっては、ハンカチを落とすことは下着を落とすことに等しかったんだ」と即答したそうです。たしかに調べてみるとその通りのようです。当たり前のことかもしれませんが、初めて聞いた時、私は全然勉強していませんでしたから、驚きましたね。

 

 

 

ではオーソンウェルズのオセロー、蜷川のオセロー、続けていきましょう。

 

 

 

四幕三場「柳の場」の鑑賞。